ショーシャンクの空に(ゴミ考察のサンプルその2)

作品考察
引用:映画.com

引用:映画.com

  • 目的→理不尽な運命からの脱出
  • 捨てたもの→居場所、順応
  • 捨てられなかったもの→希望

デュフレーンは冤罪によって劣悪な環境の監獄に囚われることになる。調達屋のレッドに出会い、道具を調達。脱獄の活路を見出していく。
周りが希望を捨てる中、彼は何を失っても構わなかったのか。

フィールド

この映画のフィールドにおいて特殊な点は、暴力の蔓延る、悪党の管轄する監獄だという点だ。看守長は統率と矯正のために、過剰な暴力を用いる。相手は犯罪者で自身は正義の使者という免罪符のもと、平気で殺人を繰り返す。囚人はルールの中で、自由を広げているが、それは看守長の暴力に触れるギリギリのところまでだ。本当に自由に振る舞うと、死ぬ。

迷路

基本的に重犯罪者である彼らが、監獄から抜け出す手段は、仮釈放だ。定期的に、仮釈放の可否を判断する問診があるが、彼らは自身の反省を口先で語るばかりで、一向に仮釈放の認可はおりない。彼らは目隠しの迷路を右往左往することになるが、疲れ果てた彼らがそこで見つける最後の光は、迷路に居座ること。抜け出そうという目的がなければ、どんな複雑な迷路もただの通路に変わる。抜け出そうという目的が、通路を迷路に変える。迷路を歩くのは苦しい。

一般人から見れば、そこから抜け出す道は容易に見えるが、内省を欠いた彼らには全く見えない。
一本道の迷路を歩き回る彼ら。

迷路には常に選択肢がある。それが迷路の希望だ。閉じられた一本道には耐えられない。二つの選択肢があれば、どちらかが正しいとも思い込める。どちらかは正しい。どちらかは間違っている。迷路から出るには全て正しい道を選ぶ必要がある。彼らはかつて犯罪を犯した。はじめの選択肢で間違ったのだから、そこからどう正しい選択肢を積み上げても、出口には届かない。それでも選択肢はありがたい。

僕たちは、自由な生活の中で、時折迷路に迷い込んでしまうことがある。そう考えがちだ。自分にとって細かい問題に悩んで迷っている人間に、こんなにも自由な世界の中で、何を小さなことにこだわっているんだと思いがちだ。でも、実態はそうじゃないのかも知れない。この世というものがそもそも迷路で、その一角に、僕たちの生活はあるのかも知れない。迷路の中で、何かしら愛着を見つけ、気に入った場所に居を構える。僕たちの実態はそういうことなのかも知れない。

そう考えると、何かに絶望し、そこから抜け出そうとする人間は、迷路に迷い込んだのではなく、この世が迷路であることに気がついたというだけのことかも知れない。自分の部屋が迷路でないのは、既に構造を知っているからだ。家も学校も会社も、ありとあらゆる場所は、そこを知った初めの状態は迷路だったことを忘れている。住むにつれて、迷路ではなくなった。

迷路ではない。ではなく、迷路ではなくなった。ついに迷路ではなくなった場所。

好きな場所を自由に旅した。それは、巨大な迷路の中を、ほんの少し進んだだけなのかもしれない。

これは、より想像の話になってしまうけど、監獄に居て失われる機能は、物事を選択する能力だ。監獄に選択はない。ただ決められた時間に起き、決められたことをやり、決められた時間に寝る。自由がないとは、つまり選択の余地がないということ。人間は本来、いくらでも選択肢を持っている。自分や社会のルールによって、合理的で安易なAと、ある程度不規則である程度予想外なBから選ぶというのが現実になる。

そして、ほとんどの場合、答えはAしかない。監獄の外に生きていても、実際にはAを選び続けるしかない。選択の余地などない。今日何を食べるか程度ならまだしも、人生の大きな局面では、実際には自分の意思では選べない。監獄と同じように。だからこそ、囚人でもない人間が、この映画を見て感動する。BやC、はたまたXなんてものを選べる人間がいる。判断能力というのは、AとBからより合理的な選択肢を選べる能力を言うんじゃない。CやDが見えることを言うんじゃないか。

話を戻して、人はAを選ぶ。昨日も選んだA、親しみ慣れたA、このAの連続が、習慣や生活を作る。Bへの憧憬、Cへの憧れ。これは万人の認めるところだろうと思う。でも、選べはしない。迷路の中を、迷子になりたくない。Aは、迷路の中で、同じところに戻ってくる目印だ。同じルートを回り続けるための目印。そもそも迷路なのだから、どこにいても結局は迷子だけれど、せめて、知った道を迷っていたい。迷子なのだけど、さらに迷うのは嫌だし、立ち止まっているのも嫌だから、少なくとも、同じところを回っていたい。それが生活だ。迷路に迷い込む人間。人は全てのことを知っていると思って生きている。知ることによって迷路ではないと思い込む。それを、不意に崩された。その不遜な思い上がりの、足元を崩された。すると、知っている道が迷路になる。帰れなくなる。

習慣と生活に夜が来て、知識と経験のコンパスが狂う。あらゆる目印が闇に染まり、迷いだす。
自由な人間かどうかなんて、このAの回路が大きいか小さいか程度の違いだろうと思う。Bを選んだとして、別の場所へ行き、またAの回路を作る。ぐるぐると回る、その場所を選びたいというのが自由への憧れだ。自由と不自由の間に決定的な違いなどない。結局納得がいくかどうか。それだけだ。他の囚人は納得した。デュフレーンは嫌だった。

ゴミ関係無えな。

キャラクター

デュフレーンの捨てたもの

この映画の何に心動かされるかというと、簡単に言えば諦めない姿勢だ。冤罪によって終身刑を言い渡され、獄中でも同性愛者に付け狙われる。その上、彼の入所した監獄は、非常に劣悪な環境だった。普通の人間なら諦めて、嘆きながら余生を過ごすだけだ。だが彼は諦めないばかりか、自分の力で苦難を乗り越える。ポスターで隠した内壁を、何年もかけて掘り抜いた。そこまで気力を保った。いや、そのお陰で精神を保てた。

彼が捨てることのできたことは何か。目的はある。現状を変えること。理不尽な運命を変えること。他の囚人たちの目的は順応すること。受け入れること。どんな過酷な環境だろうと、人間は、生物は適応する。北極にだって動物はいる。幸福になるための根源的な機能だ。それを捨てた。人間にとって環境とは、単に温度や食料を指すわけじゃない。どちらかというとルールだ。言葉になっているか否かは問わず、その場にあるルールだ。

生物は、温度に合わせて毛深くなる。食料の種類によって消化器官を変化させる。朱に交われば赤くなる。対照的な作品は、安部公房著の、砂の女。理不尽に捕らえられ、一生砂かきをして生きる羽目になった主人公が、その場に順応し、居場所と愛着を獲得していく物語。

映画中に象徴的な人物が出てくる。仮釈放を言い渡された50年の刑期を過ごした服役者の老人。彼は社会に恐れ慄く。全くついて行くことができないし、安心もできない。施設慣れというものらしい。ルールに合わせて、変化した。順応した。今以上の人間にならないこと。巷で言う、ネガティブシンキングもまた、順応だな。腐るのも、堕落するのも、悪に染まるのも順応だ。そうすることによって、環境を耐えている。

人間が死ぬのは馴染めないことによって死ぬ。人間にとって環境とはその場のルールだ。デュフレーンは、彼は、帰る場所を捨てた。日々組み上がる、居場所を捨て続けた。だから馴染めなくても死なずに済んだ。彼の特徴はここにある。どこかに行きたいわけじゃない。ここに居たくない。折り合い、順応する安楽を捨て続け、失い続けた。

デュフレーンの捨てなかったもの

失うことのできなかったものは希望。他の囚人たちにとって希望とは、そこで生きることだ。現状と折り合う希望。そして現状を抜け出す希望。希望は恐ろしいらしい。叶わない希望は、さらなる絶望を生み出すから。絶望は素晴らしいらしい。抗う苦痛を終わらせてくれるから。

得ることだけでなく、失うことが希望に、拾うことだけでなく、捨てることが充足になることもある。どうやら、デュフレーンの場合そうだったらしい。

57点

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