ディズニーの魅力

作品考察
引用:映画.com

そもそもの根本の疑問は、大人になるとなぜ、こういった作品を受け付けなくなるのかという事。別に、ディズニーに限らない。絵本その他、子供向けと言われる作品群全て、年齢を重ねるにつれて、楽しめなくなった。

かつては楽しめていた作品を、つまらなく感じる。もっとひどい例になると、嫌悪してしまう理由はなんなのか。

これらの作品が提供するものを十分に受け取ったからなのか。すでに、ディズニー社が描いてきたもので、充足したからなのか。

とてもそうは思えない。

単純につまらない。楽しめない。くだらない。幼稚だ。そんな、この世で一番くだらない意見しか出てこない。

ディズニー作品を理解できない。だから、考えてみよう。

人はなぜ、大人になると、ファンタジーが苦手になるのか。

参考作品:塔の上のラプンツェル・美女と野獣・ズートピア・ライオンキング

                                                                                                  引用:映画.com

五分五分の戦場

上の作品を鑑賞してみて、素直に出てきた感想は、「そんな風にはならねえだろ」ということ。なんだか、世間知らずの人間が繰り出した妄想のように感じた。

人間は善であって、ちゃんと気持ちを持って伝えたなら、必ず善意は伝わるし、悪は滅びて、必ず最後はうまくいく。幻想的で、理想的。

本当は素晴らしい能力を持っているのに、魅力を持っているのに、偶然の苦境によって、不当に評価されている。ちゃんと、自分あつらえの舞台に立ったならば、素晴らしい存在だときづかれるのに。

なんだか、今まで積み上げてきたものとは全くそりが合わない。実際には努力は報われず、ずるい奴が得をする、悪人は沢山いて、数と惰性に圧倒されて、結局、なんでもない人生をくだらないやりかたで、なんとかやり過ごして、後悔しながら死ぬ。僕の見てきた世界というのはそういうものだ。生きる過程で切り捨ててきたこと、このディズニーが語っていることを切り捨てることこそ大人になる唯一のやり方だと思って生きてきた。というか、そういう人間にしか自分は会ったことがない。

だからこういう作品は、大人になれなかった人間の妄想だと唾棄してしまえればいいんだけれど、運の悪いことに僕はそういう人間じゃない。なんでもじっくりと、価値を見定めようと足を止めてしまう。それがものすごい不快なわけだ。

自分の信じてきたものと全く違う理想を描いている。

つまり、なりたかったのになれなかった自分と、なりたくないのになってしまった自分が戦うわけだ。

もっと固く、なりたくなかったのになってしまった自分というものを信じ込めていればなんでもなかったろうと思う。でも、そうじゃない。ここにもまた、何かがあるのだと考える。そのせいで五分の戦いになる。戦力が拮抗してしまう。

あの、出血を描かず、できる限りバイオレンスを排除して作品を作ってるディズニー作品の鑑賞が僕たちにもたらす状態は、自分vs自分の血みどろの戦争状態なわけだ。

あの牧歌的で、愛と自由を謳うディズニーが、我々凝り固まった大人にもたらすのは、平和ではなくむしろ戦争状態だ。

そう考えると、キャラクターたちの踊りや歌も、書面がわりの宣戦布告のようで、彼らが苦心惨憺作り上げた感動の物語のプロットは、こちらの砦へ侵略するための兵法にも似てくる。

自分を保つためにこの戦いに負けるわけにはいかないから、不快だと言って避けるしかない。

1%の可能性

ディズニー作品はずっと、時代時代の問題に対して独自の回答を出し続けてきたようだ。例えばズートピアなんかは、かなり丁寧に人種差別の起こりや解決策なんかを提示している。違いを認め合え。無知から恐怖は来る。背負わされたものに、ただ押しつぶされるな。

確かにそう。言っていることは全うだ。でも、そうはならない。だからこそ、理想を描く。

悪いことが起き続ければ、悪い人間になる。良いことに囲まれて育てば、良い人間になれる。生まれには逆らえないし、運命に定められたことは背負うしかない。生まれには逆らえないし、運命に定められたことは背負うしかない。

基本的な人生のシステムではある。大半がそうなる。でも、そうじゃないことがある。稀に、そうではない結果に結びつくことがある。

99%そうではないけど、1%そうでありうる。

この、ディズニーが描いてきた物語は、無視していいものじゃない。

ディズニーはこの1%を主張してきたという発見は、とても面白い。

希望を語ることの力強さ、幻想的でも妄想的でもない。これはそんなやわなことじゃない。1%を主張することの強さ、勝ち気、反骨。

僕たちは簡単に1%と0%を混同する。底にまだわずかに残っている酒瓶を捨てる。そのせいで、本当に1%は0%になる。この1%を0%だとみなすことは現実を見ることだろうか。僕たちは99%に負けることを繰り返しながら、1%を塗りつぶして生きている。

実際のところ、100%と1%よりも、1%と0%のほうが、大きな隔たりがあるにもかかわらず。そちらのほうが、大きな意味を持っているにもかかわらず。

ディズニーを素直に受け取ることのできる人たちは、ここを保っているんだろうか。

ディズニーはじめ、1%を主張する作品。その受け皿を捨ててしまったからこそ、こういうものに親しめなくなってしまったんだろうか。

この1%がゆっくりと0%へと近づいていく過程で、ディズニーへの魅力を失ってしまったんだろうか。

現実を生きる難しさ

ディズニーが描いていることは生きることの喜びだとは思うけど、こうやって考えていくと、むしろ悲しさというものが浮かび上がってくる。世界が本当に素晴らしいものなら、こういった作品は生まれてこないし、僕のような人間から興味を買うこともない。

沢山の人が人生の中で切り捨てたものを高らかに語っているからこそ、この作品に意味がある。

切り捨てたことが正しかったとすれば、この作品群はくだらないものになるな。

この作品群を簡単に否定するなら、現実はそうはならないと一言言っておけばいい。

ただ、現実とは何なのか。

自分たちの見てきた、汚く、えげつないものだけが世界なのかどうか。自分の見てきたものと違う。だから直接否定につなげるのはあまりに狭い。

これだって現実だ。これもまた、現実の一角だ。この力強いメッセージ。

前回のマーターズとは内容自体は真逆。だけど、語っていることは同じ。

「これだって現実だ。」

自分の見てきたものと違うからと言って、存在しないというのは違う。

もう否定は沢山だ。肯定によってしか世界は広がらない。否定によって自分の妄想は広がるけど、現実は狭くなる一方だ。

人間は、いつでも手に入ると思っているものには価値を感じない。そういうものだ。人間が本当に価値を感じるものがあるとすれば、それは決して手の届かないものだからだという事が言える。

ディズニー作品を見て、キャラクターたちの生活ぶり、態度、なんだかとても簡単そうに、単純そうに見える。こんなもの、やればできるさとおもってしまう。本当にそうだろうか?

簡単だと思うことによって、軽んじてしまっている。でも実際にディズニーキャラクターのように生きることの難しさを考えてみると、足がすくんでしまうような難しさがある。

そういう意味で言うと、ディズニーの作品世界の本質というのは、

いつでも誰でも簡単に実現できそうに見えながら、実際にはどれだけ頑張っても誰も手の届かない極めて難しいものだという事が言えそうだ。手中の蜃気楼。

これはいい結論だと思う。

一つも軽んじていいものはない。すべてに感動を持っていい。その時間はたっぷりとある。軽んずるところに、退屈と堕落はやってくる。

分からないことを理解したい。知らないことを知りたい。そうしたいけれど、とにかく関心が薄れている。

生きていて、不安が強い。ともかく、色んなことに不安を感じる。ということはつまり、目の前のものは危険であるかそうでないかがすべての基準になっている。

危険でなければオッケー。もう、なんの関心もない。自分とは無縁のもの。自分を壊しはしない。

それを認識するために、危険でないことを確認するために、物事の危険な側面だけを見ている。

凶器というものがある。人を殺傷するためのもの。僕はあらゆるものを凶器かどうかで見ているということになる。絆創膏もも、ガードレールも、自分の意見も。

これは、危険ではないか。僕を傷つけないか。安全かどうか。すべての関心はそこ。

でも、この世のすべてのものは、凶器の可能性を持っている。バールのようなものだけが凶器じゃない。凶器として使用することが、モノを凶器にする。例えば、哺乳瓶で人は死にうる。

誰もが、ものごとの側面だけを、自分の経験に照らし合わせて生きているらしい。

この世は地獄と言う人がいる。事実だ。その人にとってはこの世は地獄だ。この世は天国だという人がいる。それも事実。その人がそう思うなら。

この、絵本に書かれた、一筆書きの落書きのような疎外感。

どんな広大な風景を見ても、そういう壁紙が張られた小さな部屋に突っ立っているような気がする。

これもまた、都合のいい側面なんだろうか。

みんなが赤だと言っているものを、もう一度赤だと言い直す意味ってなんだろうな。赤だということはもうわかったんだから、青の可能性を考えてみたいよな。

 

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