マーターズのグロさ

作品考察

この記事では、閲覧注意、鬱映画、見るべきではない作品などの悪名高い、マーターズについて書いています。

あらすじや、視聴した人間誰もが口をそろえて言う、「グロい」という感情が一体どこから来るのか。では苦痛とは?絶望とは?そんなところを、ネタバレあり、作品解説をまじえながら考察しています。

引用:映画.com

評判やあらすじ

あらすじ(ネタバレあり)

見出しにあらすじとありますが、全然あらくないです。殆ど重要な部分も書いてしまっているので、視聴予定のある方はご注意ください。

まず、半裸の少女(リュシー)が懸命に駆けているところから物語は始まる。下着も体も、血にまみれ、叫んでいる。

回想のように、彼女の養護施設での生活、彼女が捕えられていた廃工場の調査とが描かれる。栄養失調・脱水症状、典型的な児童虐待だ、現場である廃工場で、保護された彼女の当時の様子を調査員が語る。

養護施設で生活をする中で、一人の少女(アンナ)と仲を深めていく。二人で遊んだり、食事をしたりする様子が撮られている。国内の幼児虐待にまつわる重要事件として、リュシーの参考映画が製作された。

養護施設内で、リュシーは発作的に、何らかの存在を恐れていることをほのめかす。常に何かが自分を付きまとい、機を見て襲いに来るという。彼女はそれを極度に恐れ、怯えながら暮らしていた。

十五年後に時間は移り、ある仲睦まじい四人家族の日曜の朝食風景が映される。

妹は兄をラブレターの事でからかい、母は水道の日曜大工に精を出す。息子の進学と将来に関して議論を交わしながら、四人で食事をしている。

そこに、猟銃を持った女に襲撃を受ける。手早く家族を皆殺しにしていく。子供二人を撃つときには、若干の躊躇がみられたが、それでも結局、二人とも惨殺してしまう。

女は、成長したリュシーだった。

その両親は、かつてリュシーを捉え、拷問を加えた男女だった。

復讐として、猟銃によって襲撃し、家族を皆殺しにしたのだった。

リュシーは、娘の陸上の記録が新聞の紙面に載っているのを見つけ、その時の家族の集合写真から、二人の存命と居場所を割り出していた。

事を終えたリュシーの前に、再び怪物が現れる。リュシーは言う。「やったわ。見てよ。」

怨敵の血を、怪物に見せつける。怪物は突然リュシーに飛びつき、背中をリュシーが持っていた刃物で切り刻む。怪物は、傷だらけの痩せこけた女だった。

怪物から逃げ回り、家の外に飛び出したところで、アンナが到着する。リュシーを残し、アンナは家の中に入り、惨状を目にする。リュシーの復讐の跡を目の当たりにし、ショックを受け、苦しむ。

死体の処理をしながら、復讐の完遂と罪との葛藤に、リュシーは苦悩する。そこでも、拷問されていた時のフラッシュバックと怪物が、何度もリュシーを襲う。「何が望み?奴らの子供まで殺したのよ。」怪物に、彼女は叫ぶ。

アンナは死体の処理をしている最中、母親にまだ息があることを知る。リュシーに恐るべき傷を与えた人間でありながら、それでも人間の情にかられ、母親に息があることをリュシーに伏せ、逃がそうとする。

十五年前の、リュシーが廃工場から脱出したときの回想に戻る。枷を外された隙に、逃げ出した彼女は、他の部屋で拷問されている女性を発見するが、どうすることもできず、彼女を見捨ててしまう。あの怪物の正体は、その時見捨てた女性への罪悪感から生み出された、リュシーの空想上の存在であることが示される。背中の傷も、彼女自身が自分で切りつけたものだった。

リュシーは、母親に息があることを知り、アンナの制止を振り切り、ハンマーで止めを刺す。アンナとリュシーは揉める。自分をここまで痛めつけた人間をどうして救おうとするのかと、リュシーは怒り狂う。暴れるリュシーだったが、そこでまた、怪物の襲撃を受ける。すべてに決着をつけたことを怪物に伝え、怪物はリュシーを許したかに思えたが、やはり怪物は彼女を攻撃する。

リュシーは怪物との格闘の末、家の窓を破り、外へと飛び出す。大雨の中、自分の首を掻き切り(怪物に切られ)、絶命する。

アンナは嘆き悲しみ、リュシーの遺体を労わる。二年ぶりに母親に電話をかけている最中、ふとしたことから、ある隠し通路を見つける。明かりのない階段、コンクリート造りの通路を歩いていく。そこで、女性達の写真が飾られたギャラリーを発見する。いずれも傷つき、やせ衰え、異様な目つきをしている。その向こう側に、鍵付きの地下への入り口を発見する。

梯子を下りて行った先に待っていたのは、リュシーと同じように、拷問された女性だった。ここでアンナは初めて、半信半疑だったリュシーの言い分が正しかったことに気が付く。アンナはショックを受け、女性を介抱する。

女性は恐ろしい状態だった。体は新旧夥しい傷で覆われ、体はやせ衰え、頭には、頭蓋骨に直接打ち付けた、拘束具がつけられていた。

拘束具をとった後に女性は錯乱し、アンナの制止を振り切り、頭を壁にこすりつけ、自分の手首を切ろうとする。そこへ、武装した一団が家に乗り込み、女性を射殺した。

女性の死体をどこかへ運び去った彼らはアンナを捕らえ、隠し通路の奥へと連れていく。

家族やリュシーの死体の処理を終えた彼らは、アンナを、持ち込んだ机に着かせる。そこにマドモワゼルと呼ばれる老女が訪れ、リュシーのことや、拷問の理由を説き始める。

自分達はある宗教団体なのだという。リュシーはたかだか、多くの犠牲者の一人であることを明かす。

我々は計画に基づき、長期間の拷問を加え、苦痛を育み、犠牲者を作っているのだと語る。その過程で犠牲者は様々な幻覚を見るようになり、リュシーに付きまとっていた怪物や、女性の行動の原因となっていた体を這うゴキブリがその例だという。

犠牲者を作る過程で、稀に別格とされる、殉教者(マーターズ)が生まれることがある。地上の悪のすべてを引き受け、自己を超越する存在。それは変容と呼ばれる。

マドモワゼルはアンナに、歴史上のいくつかの殉教者の例を見せていく。若い女を対象とするのは、単に変容を起こしやすいという理由からだと語り、その場を去った。

アンナは鎖に繋がれ、隠し部屋に囚われた。次の殉教者作成の犠牲となるらしい。

何度も、何日も、拷問を受ける。暴行や、衰弱を目的とした栄養管理に、初めは抵抗するアンナ。しかし次第に気力を失っていき、抵抗をやめていく。少しづつ様子が変わっていき、嘆いたり、泣いたりということが無くなっていく。

ついに、リュシーと会話が出来るようになり、その中で身をゆだねることを考え出す。拷問はなおも続くが、アンナは抵抗をやめる。変容だった。

製作者たちは機が熟したのを感じて、最後の段階に入る。

アンナの顔以外の全身の皮膚を手術により取り去った。

製作者の夫婦は喜び抱き合う。とうとう殉教者の表情がみて取れたと、マドモワゼルに電話を掛けた。

マドモワゼルはじめ、宗教団体の会員達が、例の家に集まる。

マドモワゼルはアンナに近寄り、あなたは見たの?別の世界を。と尋ねる。彼らは、殉教者に、死後の世界を覗き込ませようとしていた。

アンナはマドモワゼルに語りかける。ここでの言葉は、わからないように撮られている。

ある男が会員達に、殉教者が生まれ、死後の世界を見たことを伝え、別室のマドモワゼルに、その証言の発表を促す。

男は尋ねる。死後の世界はあるのか?

マドモワゼル「当然だ。紛れもない。」

化粧をとりながら答える。

「疑いなさい」

そういって銃を取り出し、銃口を咥え、発砲したところで、物語は終わる。

 

 

 

なんじゃこれ。

評判・立ち位置

というわけで、全編ネタバレのあらすじでしたが、ここで世間の声を見てみます。どんな評価なのでしょうか。

、このゴミを作ったニヒリストの束が何かを主張することを示唆しています。それが実際に示しているのは、フランス国で深刻な腐敗が起こっているということだけです。

引用:ロッテントマト

本物の偏光映画、このガリックの拷問ポルノは、グラフィックで、残忍で、厄介で恐ろしいものであり、誰の好みでもありません。引用:ロッテントマト

ホステルは終盤になって、カタルシスがあったが、この映画にはそれが無く、ただただ不快で意味不明。 トラウマ度はホステル互角だけど、映画の出来としては、だいぶ劣ると思います。引用:映画.com

これは見やすい映画ではありませんが、見る価値のある映画です。引用:ロッテントマト

私はスプラッターは得意ではないのですが、今作は好みを超越。 開始5分に圧倒され… 中盤の衝撃展開を経て… 終盤【並のホラーとは格の違う】凄みのある恐怖を味わえる大・傑・作!引用;映画.com

まあ、映画作品の例に漏れず、賛否両論あるようですが、賛否の両方に、見るのがキツいという感覚が通底していますね。偏向映画だと、マニアにはたまらないと言われるこのマーターズですが、確かに、精神的リストカットには最適な映画でした。

なぜこんなにもグロいのか?

あらすじを見てもらったり、実際に視聴した方なら間違いなく感じたであろう、この作品のグロさ。正面から見ても、そのグロさは十二分に感じられたでしょうが、ここは冷静に、ではなぜグロいのかというのを、色々と考えてみます。

視聴者への物語上の配慮や処理がない

グロい、えぐい、居たたまれない。そういう感情。この源はどこにあるのか?

グロい。もっと明確に言うと、処理ができない。納得がいかない。あってはならない。知ってはいけない。

稀に、ニュースで恐ろしい事件の顛末を見聞きすることがありますね。被害者が子供であったり、罪のない人であったり、なんだかどうしようもないような出来事を、メディアを通じて知ることがあります。

そこで僕たちは不快な思いをするわけだけど、なぜかどんなにひどい事件を目にしても、次の日を生きていくことはできる。なんだったら、生活の忙しさの中で、すぐに忘れてしまうことだってある。当然と言えば当然だけど、不自然といえば不自然だ。

これは恐らく、自分の中で、何らかの処理をしているのだと思うんです。

人間はめいめい、自分の中に、処理場を持っていますね。悪いことが起きても、恐ろしい事実を知っても、それをなんとか処理し、乗り越えていくような場を持っています。

その場で行われる処理プロセスを言葉にするとしたら、

自分とは無関係だ。

そういう運命にあった。

すでに終わったことだ。

こういった言葉、思想によって、様々な不都合な出来事を砕き、燃やし、埋め立てて、僕たちは生きているわけです。

この処理場には、燃えやすいもの、燃えにくいものというものがあって、

例えば(この例えもどうかと思いますが、事実なので書きますね。)、とても酷い事故が起こったとします。ものすごく凄惨な事故で、大きな悲しみを生んだとします。

はじめ人は同情しますね。とても不運で不憫だ。可哀そうだ。本当に辛い。

そこで、いろいろと調べていくうちに、その被害者がものすごく悪事を働いていた人間だという事が判明したとします。多くの人を不幸にしていた、悪人だったことが分かったとします。

するとどうなるでしょう。同情の声はやっぱり消えていくでしょう。

むしろホッとするような、胸をなでおろすというか、ああ、ならまあしょうがないかと、自分の中で安心を作ることができるでしょう。

出来事を処理することができる。燃えやすくなるんですね。

良いか悪いかは置いておくとして、人間の感情にはそういうところがあるでしょう。

悪い人間には、悪い運命を。それが道理だと、僕たちは考えています。

基本的に、映画やその他のエンタメ・芸術作品には、処理をしやすいように、配慮がなされています。

たいていの物語では、ひどい目に合うのは悪役だし、因果応報という言葉の元、どんな酷い目にあってもそりゃ仕方がないよね。と思わせてくれる演出がなされています。

ホラーやサスペンスでは、善の側、主人公が報われずに終わるという事はあります。ただ、そういった映画では、グロさを緩和するために、これまた配慮がなされます。言ってみれば、主人公を軽くするんです。強くするというか。

あまり嫌味や不快さを感じさせないように、弱者的な要素を持たせないし、割と幸せな生活を送っている、平々凡々な人間が、恐ろしい出来事の巻き込まれていくという状況を、物語上で作るんです。

日常の崩壊というのが、ホラーやサスペンスの大きな主題だったりしますから、普通の、一般的な人間が主人公となる場合がほとんどなわけです。

そこで、このマーターズです。

この作品では、二人の主人公がいますね。殉教者作成計画の犠牲者になりかけ精神を病んだ少女リュシー、そして、保護された先の養護施設できずなを深めたもう一人の少女アンナ。

彼女たちは、経済的にも社会的にも弱者で、不幸な人生。苦しんでいながら、根は善人。そして、二人で幸せに暮らすという、ささやかな夢を持っている。

何ひとつ処理をしやすくするための配慮がなされていないどころか、物語上でバットエンドを迎えてはいけない要素を全て兼ね備えている。この映画は、倫理上の禁忌とともに、物語上のタブーも同時に破っているんです。

これは、かの有名な鬱映画、ダンサーインザダークも同じですね。これはこれでめちゃくちゃしんどいけれど、ダンサーインザダークもやっぱり、物語上でひどい目に合ってはいけない人間が、最悪の結末を迎えるという点で、同じ種類の映画だろうと思うわけです。

ダンサーインザダークはとりわけ、ビョークの幼女的な、保護対象然とした外見がそのキツさを加速させているというか…。

まあそれはそれとして、今までの普通の映画作品に触れていればいるほど、その隙を突かれるというか、主人公は報われる、弱者は救済されるという願い、それを最悪な形で破壊されることになるわけです。

あってはならないことが怒涛に押し寄せるわけです。

こうだから人生は生きるに値するんだ、という、人間の根本の部分に唾を吐いて見せている。

カルト宗教団体の願いの陳腐さ

さあ、そこまでして、これほどの苦痛を理不尽を与えておいて、なにが目的とされていたのかというと、死後の世界の存在。つまり永遠の存在になりたかったわけですね。彼らは見るからに経済的にも成功していると思われる外見をしていました。様々なものを手に入れて、それに飽き足らず、さらに自分の、一人の人間の分を超えて、永遠の命を手に入れようとする。

究極のエゴである、永遠の命、永遠の幸福。陳腐で、くだらない。

僕たち観客は、そんなものは存在しないと思っていますから、全てが徒労に終わることを知っているわけです。死後の世界を信じているならまだグロさは薄れたはず。この拷問が全く無駄な、しなくてよかったことだと、彼らの目的を知って、感じてしまうわけです。まあ、グロい。処理できない。

人々が苦痛と向き合わないから、殉教者が必要になるとマドモワゼルは他人事のように言っていましたが、苦痛と向き合ってないのは、他でもない彼ら宗教団体の人間たちですからね。理不尽。

願われた苦痛とその手法

もう一つ上げるとすれば、彼女たちの苦痛は願われたものだったという事ですね。苦痛がだれかによってもたらされた人工的なものであり、願いなんですね。苦しむことを願っている。

流れ星を見つけ、彼女たちにどうか苦痛を。と願う。

手を合わせ、苦痛を祈り、それを希望に明日を生きようとする。

ここですね。こういうところもえげつない。

そして、殉教者の作り方。

彼らは何度か殉教者に会っているらしい。というか、どうすれば殉教者に成るのか分かっているらしい。だから、殉教者作りはマニュアル化されている。

工場でのライン作業の如く、冷徹に拷問を行う。

モノとしての扱い。取り換え可能な、名前のない存在。利己主義やら全体主義やら、あらゆる悪しきものを詰め合わせたような気味の悪さ。グロさ。

別に、誰であってもいい。彼女じゃなくてもいい。人間という有機体であれば、なんだって構わない。

ああ、えぐい。

作品とは無関係な感想・考察

この作品では、倫理的な認可を得ていないことが怒涛に押し寄せます。許可していないことが大量に起こる。

これが自然現象ならまだどうにか処理できる。どうにかこれを避けられないかと努力しようという気も持てる。機械がやったことならまだ、ここまでのキツさはないはず。

マドモワゼルはじめ、彼らにも人間としての善意が残っているかもしれないという希望が、むしろ恐るべき絶望を作り出している。

仕方ないと思えない。やっぱりそこに尽きる。

努力の余地がある。どうにかできる。どうにかなったかもしれない。人間はそこに、キツさ、グロさ、苦痛を感じるわけだ。やっぱりそうだ。

どうにもならないこと、不能なことには、人間は苦痛を感じない。どうにもならないことになんて人間は苦しまない。

聞いたところによると、悩みは青年の特質だという。大人になれば、悩みなんて無くなってしまうのだという。

悩むのは若いからだ、青いからだと人は言う。なんだか嫌な言葉だ。

それはなぜなんだろうな。

たぶんね、情熱が冷めたからじゃないかと思うんだ。

何かに悩むという事の本質は、それをどうにかできると思っていることにある。

どうにかできると思っているからこそ、それに苦しむんだ。

全てを諦めていれば、苦痛なんてない。悩みなんてない。アンナも最後はそうなっていた。

それなら悩みというのは、世間で言われているような、クヨクヨとした、貧弱なものなんだろうか。

情熱があるからこそ悩むんじゃないか。

僕は、悩みや苦しみは、情熱が散らす火花の一つだと思う。

悩まなくなるのは、情熱が失せたからだ。

どうやら、情熱が焼くのは、自分の身でもあるらしい。それなら、悩み苦しみ、自ら死んでいった人たちを焼いたものは、彼ら自身の熱でもあるんじゃないか。

僕はこの焼け跡をよく考える。灰の事を考える。情熱のせいで去っていった彼らのことが、嫌いじゃない。

別に、自殺自体を容認したいわけでもない。それでも何か、考えたい。彼らを認めたい。知られざる熱を知りたい。

僕は、熱のないものが嫌いだ。

最近、ゲーテの若きウェルテルの悩みを読んだ。

これもまさにそういうものだった。

ウェルテルは情熱的な男だった。許嫁がいると知りながら、一人の知的で快活な女性を愛してしまう。自分にはこの女性しかいないと熱狂し、自分の妻にしようとする。無防備な純粋。ある種の自惚れ。そして、情熱。

結局、彼女を奪うことはできず、苦しんだ果てに拳銃で自らを撃ち抜く。

彼は、自分の体温の火傷で死んだ。

もっと冷めていれば死ぬことはなかった。

僕は、苦しみを避けることを考えて生きてきたし、それが正しいと思ってきたけど、苦しんで生きてきたという事は、燃えながら生きてきたということと、同じことじゃないかと思うんだ。

悪いことがなかった日が、良い日なんかじゃない。

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