最高の人生の見つけ方(ゴミ考察のサンプルその4)

作品考察
引用:映画.com

引用:映画.com

末期癌が発覚し、二人の男が失ったものを拾いにいく物語。死が決まった二人。生は多様。死は一種のみ。失った何かを拾うための旅。片方は、我慢していたこと。もう片方は、無視していたもの。
カーターは、旅の最中で、かつて十代の頃に持っていた、妻へのときめきを失ったと語る。
現実における、モノの失い方に思い当たった。劇的な物語を行く映画キャラクターのように、突然何かを落としてしまうこともあれば、徐々に、ゆっくりと消えていくものもある。
 
手の内にあるものを、しっかりと握り締めながら、輪郭が少しづつ縮まっていく。気づかないうちに。落とすではなく、消えていく。いつ失ったのかもわからない。「気付いたら失っていた。」一般的な生活にとって、失うという言葉の意味は、これがおそらく正しい。人間の生活というものの大きなキーワード「なし崩し」彼は、失ったことを後悔しているか。どうだろう。失うものは、やはり許しているものか。
 
捨てる、ゴミという言葉において、特殊な点は、失いたいと思っていないにもかかわらず、失っていくというところ。人は、大切なものさえ、捨てていないにもかかわらず失う。失って良いものは、消えようがそもそも気にもしていない。
 
彼らは死が現実味を帯びるに従って、今までの人生に疑問を持つ。本当にこれで良いのかと、改めて問い直す。カーターは家族のために我慢してきたこと。エドワードは成功のために切り捨ててきたこと。
 
人は、失ったものも、いつかは取り戻せると思って生きている。そのおかげで、失うことに耐えられる。だが、実際には違う。失ったものは、死に物狂いで努力しないと、取り戻すことはできない。彼らも死を前にして、ようやく失ってしまったものが、そのままでは取り戻せないことがわかる。生きていることは、曖昧なことだ。ただ、死ぬということはいろんなことが確定するということだ。
 
人間は、成熟するにつれて、失っても構わないものが変化していく。失うことのできないものが、自分か自分に基づいた何かだということは、未熟であるということなんだろうか。今の時点ではそう思う。自分を鑑みるに、そう思う。逆に、失っても構わないのが自分だというのも、僕は未熟だと思う。何かに命を懸ける人がいる。嘘か本当か、そういうことを言う人がいる。なぜそんなことができるか。それは、命が大切じゃないからだ。命がゴミだからだ。
 
それは、とても弱気なことだと思う。命がくだらないから、ゴミだから、リサイクルの方法を死に物狂いで探しているに過ぎないと思う。命が大事なままに、命をかけられるものを持っている人こそが、本当にすごい人間だとも思う。
 
なんだかやっぱり、愛というものとゴミ、つまりは捨てるという行為に、近しいものを感じてならない。何かを捨てた人にだけ持つことのできるようなものだと感じる。ゴミと愛というものの似ているところ。概念としての許容量の広さ。誰にとっても役に立たない。誰にとっても役に立つ。なんの手段にもなり得ない。道具にできない。個性が出ない。道に捨てられるゴミはどの国でも同じらしい。捨て方に個性が出ない。愛にも、程度や個性はない。
 
そう考えると、愛に変化し損ねたもの、それがゴミだと言えないだろうか。道具、男、女、親、子供。愛になれなかった。愛され損ねた。愛という網からこぼれ落ちたものが、ゴミになるんじゃないだろうか。宝物も、じっさいのところ普遍的な価値なんて持たず、ガラクタ同然のものも多い。ゴミと大して変わらない。ならなにが、宝物とゴミを分けるのか。愛着、記憶、経験。己にとって変え替えのない経験をもたらしたもの。その経験を思い起こさせるもの。それが宝物になる。ペッドボトルは宝物にならない。一瞬の機能とその個性の無さによって。
 
僕は、毎日毎日たくさんのゴミを捨てる。毎日毎日愛することを諦めている。捨てるという、何気ない、なんの造作もないと思える行為は、実はかなり人間の本質に関わることらしい。
捨てる=愛さない。ゴミに関心を持たないのは、わざとやってることかもしれない。何をしようが変わらない。それはひとつだけ。愛のあるところにゴミはない。
大切なものが変われば、捨ててかまわないものがかわる。
 
愛とゴミとは紙一重。
 
これどこかで書いた気がするな。
 
もうちょっと考えてみよう。
75点

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