私はあなたのニグロではない

作品考察
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僕は、日本に住んでいる。異人種の中で暮らしたことはないし、差別をされたこともない。差別に対する、肉体的実感はない。

ただ、知識では知っている。黒人が長い期間に渡り、酷い差別を受けてきたこと。かつてほどではないらしいけど、今でもアメリカには、黒人差別は存在するらしいこと。

とても繊細なトピックだと思う。ただ、最近よく考える多数vs少数の構図として、とても典型的なものだと思う。

「私はあなたのニグロではない」題名に魅力を感じて借りてみた。2016年に作られた、黒人作家ボールドウィンの未完成原稿に基づいて作られたドキュメンタリーらしい。

僕は兼ねてから、黒人差別に始まる、全ての差別に対して思うところがあった。

根拠は何だ?なぜ、こんなことに?

この当時のアメリカ人の、黒人への嫌悪は、差別感情は、一体どこから来るのか。なぜ、ここまで酷い、愚かしい差別が存在するのか。

その答えが、ここにはある気がした。

というわけで、「私はあなたのニグロではない」の感想です。

差別の実態

冒頭、ボールドウィンと司会者が、テレビ番組で差別問題について語っているところからスタートする。

「黒人はなぜ悲観する?」「これだけ世が変わっても希望はない?」インタビュアーが、聞く。

ボールドウィンが語る。「これは黒人の状況の問題ではない」「一番の問題はこの国そのものです」

面白い導入だ。

黒人音楽を背景に、弾圧現場の写真が連なる。黒人への露骨な差別が描かれる。警察に連行される人、吠える警官隊、(黒人の命も大切だ)こんな、馬鹿馬鹿しい(当然の)文言が書かれたプラカードを持った女性。

三人の公民権運動の指導者も紹介される。メドガー、マルコムX、キング牧師。無知な僕でも知っている。三人ともが、暗殺によって、立ち止まる事になる。

ただ、実際のところ、彼らのことはそんなに映画内で触れられない。それぞれの方針が簡単に紹介される程度だ。この映画が示したい部分は、差別問題の根拠だ。ボールドウィンは、国自体に問題があるという。国とは、体制であり、メディアのこと。

一人の少女が、差別の具体的事例として紹介される。大人が、堂々と、黒人は差別されて当然と考えられていた時代の出来事。

白人の学校に、黒人の少女が編入する事になった。彼女は、嘲笑と罵倒を受けながら、学び舎へと向かう。一人の少女に向かって、大勢で取り囲み、ニヤつきながら、楽しそうに、虐げる。本当に、いたたまれない状況だ。彼女のこの受難には、彼女の責任はない。ただ、生きているだけだ。ただ、存在していただけだ。にもかかわらず、こんな仕打ちを受けた。生まれながらにして、債務を負わされた。彼女は、ただ、同じ世代の子供と同じように、学校に行っただけだ。

誰も(被差別者である黒人を除いて、大部分の人々)が、その状況に疑問を持たない。明らかな異常事態だ。こんな事は、ありえない。子供だけならいざ知らず、大人が関わった上で、この状況はありえない。

でも、起こった。なぜか。

すこしづつ、真実が明かされていく。

メディアと創作物

映画、芝居、エンターテイメントの世界で、黒人は都合よく利用されてきたとボールドウィンは語る。現実ではなく、想像上の、実態を伴わない「キャラクター」として使われた。

愚かで、間抜けで、劣った存在。そんな風に描かれた。

英雄を作るために。

白人の英雄を作るためには、打ち倒す敵が必要だった。英雄の英雄らしさを強調させるために、白人は英雄だと信じ込ませるために。

黒人は、選ばれた。英雄像の足元を支える土台として。差別は、そもそも存在するものではなくて、人工的に作られた構図だという事らしい。

何も考えずに、信じ込む事なしに、こんな事が起きるはずがない。黒人差別は、メディアによって作られ、手も無く大衆に信じ込まれた、人工の信仰だったという事だ。そこには、己がない。己の意思も、考えもない。ただ、国家の指示のもとに動く、一つの駒として、差別を繰り返す束の反復装置によって出来上がった地獄という事らしい。

この地獄の設計図を書いたのは、大衆じゃない。でも、その資材を調達し、組み立てたのは、普通の一般人だ。僕のような。

おそらく僕は、地獄の建設現場に居合わせた事が、間違いなくある。無自覚に、せっせと地獄の壁を塗り固め、床を敷き、誰かを苦しめたことがある。自分の頭で、何も考えなかったから。自分の心で、感じなかったから。

正しいということは、誰にとって正しいのか。そうであるべきとは、誰にとって得だから、そうであるべきなのか。

差別者と被差別者の温度差

何度も抗議運動が描かれる。ある者は悲痛な面持ちで、ある者は覚悟を決めた表情で、差別に立ち向かう。にもかかわらず、抗議運動に対する大衆の反応は冷たい。

ボールドウィンは、大衆は抗議運動、憎悪犯罪を、別の惑星で起こっているかのように扱うと言う。

なるほど、わかる。

苦しみを訴える者、何かを変えたいという者への、世間の残酷な冷笑はわかる。これは、アメリカだけの、差別問題だけの話に留まらない。

苦しみ?そんな物は存在しない。全ては善で、良い方向へ向かっている。我々は進歩している。全ては改善してきている。

こんな良い国に生まれた。なのに、何をそんなに苦しいふりをするんだ?大げさじゃないか?単に、お前の努力が足りないんじゃないか?この手の暴力はわかる。

苦しいなんて、嘘じゃない?

Xの存在

マルコムXは、怒りの力を持っていると語られる。現状を変えるために、どんな手段も厭わない覚悟が必要だと言う。

キング牧師は、愛の力を信じよと説く。愛は感傷じゃない。もっと力強い物だ。反撃に暴力を使うな。

ボールドウィンは、考えた。全ての差別は無知からくると考えた。白人全てに、明確な敵意があるわけじゃない。つまり、黒人が絶対的な対象ではないということ。

ここまでくると、差別というものの内に、別のものの存在が見えてくる。問題は人種差別ではないと、ボールドウィンは語った。間違いない。

Xというものがある。この、Xというものは、人々の心に溜まっていくものだ。鬱屈、怒り、悲しみ、憎しみ、そんなネガティブなものの総称としてXと置いてみる。別に、フラストレーションと言ってもいいけど。

このXは、あらゆる経緯で、個々人の心に溜まっていく。そしてそれは、抱えたまま生きていくにはあまりに重いから、それぞれがそれぞれの方法で手放そうと試みる。

叫んでみたり、歌ってみたり、はたまた、スポーツやレクリエーションで発散させたり。悪い例と言えば、弱者に向けて、暴力を振るう、罵倒する、絶対的な劣ったものに八つ当たりをする。

Xは、常に出口を求める。発散を求める。

その、Xの発生源から一番近く、最も広い出口が、人種差別だったということだ。

そこには、メディアの力も関係している。人々の異なる者への恐怖心、それにつけ込み、人工的に広げられ、固定された門。それが、人種差別だったということだ。

問題は、人種差別じゃない。Xの存在と、その処理方法だ。

私はあなたのニグロではない

「黒人に、黒人という役割を与えた」そう語るボールドウィンは、差別問題の急所も見破っていた。

こと差別問題に関して、自覚的に差別主義者であること以上に悪しきことが一つある。それは、ただ、なんとなくだ。

ただ、なんとなく、悪いことだからやめておく。ただ、なんとなくみんなしていることだからやっておく。これこそが、差別問題を支え、運営していく資金になる。

「あなたは、私を二ガーだと思うか。それならあなたは、二ガーが必要な人間だ」

この、価値観錯乱の時代に、多数に押し潰された人々は、これを恨んでいる。僕もそうだ。数の暴力、無自覚の剛力に血まみれにされて、この生きづらい国の端っこに投げ出されている。

この時代に生きる一人として、僕は考えようと思う。無駄だと思っていた内省的な性質も、慎重な性格も、なにかの価値があるはずだ。

ただ、なんとなく、そうらしいから、やってみるのがいいっぽい。そう、今まで生きてきた。

僕は時代の一部として、大衆の一員として、自分の足で、地球を歩いてみたい。

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