虚無

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虚無、という言葉がある。

今まで、なんの主張も持たず、化粧を塗りこめたのっぺらぼうとして生きてきたから、この言葉には、とても親しみを感じる。別に、何をしたいわけでもない、別に、取り立てて欲しいものもない。別に、なりたいものがあるわけでもない。別に、別に、別に。

世界も僕も、虚ろで、無い。僕の人生にぴったりな言葉だ。空虚で、不感で、透明だ。

ただ、ひとつ、この虚無という言葉に対して、兼ねてから違和感を持っていた。虚ろで、無い。無い、ということは、空っぽだということだ。不足していて、満たされていないということ。

辞書を引いてみると

【虚無】㊀とらわれる何ものも無いこと。空虚。㊁人生・世の中のむなしさを意識すること。ニヒル。

新明解国語辞典、第七版

とある。

うん、やっぱり、何か違和感がある。僕は、からっぽ、空、無、ということに、妙な魅力を感じている。それはもっと、希望的で、洗練された何かを感じている。

本当に、この虚無という表現と、実際の状況とに、整合性があるのかどうか、考えてみた。

すると、僕の違和感は正しい感覚だということがわかった。例えから入ってみる。

まず、赤ちゃんはからっぽだ。なんの知識もなければ、思想も、主張もない。定義で言えば、彼らは虚無に該当することになる。とらわれるものは何もない。からっぽだ。では、実際にはどうなのか。僕は、ニヒリズムに陥っている赤ん坊なんて、見たことがない。斜に構え、開き直っている赤ん坊なんて、一度も見たことがない。

彼らは、好奇心の塊だ。何にでも触れてみる。なんでも口に入れてみる。目は輝いている。忙しなく動き回る。活発で、健康だ。からっぽであるにもかかわらず。

ここで、自分を省みてみる。何物にも興味がない。気力がない。行動がない。ただ習慣の中を歩き回り、やがて疲れ果てて同じ場所で眠りにつく。僕は、彼ら赤ん坊と違って、拙いとはいえ、知識がある。物事を知っている。分かっている。理解している。にもかかわらず、僕の方が虚無に相応しい。明らかにからっぽであるはずの彼らの方が、虚無とは違った実態の中にいる。

これは、一体どうしたことか。なぜ、こんなことになっているのか。

そこで、思い出してみる。自分を始め、虚無な人々のこと。その行動や言動、様子。

ひとつ明らかなことは、虚無に陥っている人間は、よく似ているということ。雰囲気、言動、目つき、なんだかとっても似た空気感が出ている。よく冷たく笑う。見下したように、年季の入ったニヤニヤを、懸命な者、珍しい者、違った者へと向ける。変化を嫌う。失敗を嫌う。恥をかくことを嫌う。目立つことを嫌う。本当によく似ている。個性的なものは何も無い。ということは、自分由来のものを無くしてしまっているということだ。同じ顔をして、一列に立ち止まっている。

つまりは、そういうことかもしれないんだ。虚無とは、満タンなんだ。完成なんだ。集大成なんだ。

虚無とは、たどり着くものなんだ。世にあふれている、安くて、舌だけは騙せて、容易に大人になった気になれる。そんな、他人の作った粗製の思想を、飲んで飲んで、飲んで飲んで、はち切れんばかりの脂肪の塊になって、そこに立ち止まっているということなんだ。手も足も、頭も、心さえも、他人で構成された変な生物、それが、ニヒリストなんだ。飢えが、飢えだけが、人間を立ち止まらせるものだとばかり思っていた。足りないのではなく多すぎるんだ。飢えているのではなく飽食しているんだ。スタートできないんじゃなく、ゴールに辿り着いてしまっているんだ。

虚無は、感情じゃなく、ひとつの将来なんだ。

この、虚ろに昼を眺める目は、夜に開きっぱなしの瞼は、本当に僕のものだったか。僕が入る隙間もない程、他人で埋まっているだけじゃなかったか。こんな時代に生きる人間が、動き出すために必要なのは、摂取じゃなく排出だったんだ。まず、嘔吐から始めてみるべきだ。食い尽くしてしまった、あの健康な飢えを、取り戻すために。

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